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生後53日での左心低形成症候群による乳児死—当事者の声 その時#10

 「おめでとうございます」の言葉とともに元気な産声が聞こえてきた瞬間は、きっと幸せに満ちあふれたものだろう。そして、誰もが我が子とともに過ごす未来の存在を疑うこともない。

しかし、そこから歯車がズレてしまったように予期せぬ未来へと急激に方向転換してしまうことがある。

そんな混乱の中で母として一生懸命考えてさまざまな決断をしたとしても、のちに「あの時こうしていれば……」と後悔を抱えることもあるだろう。

今回インタビューに応じてくれたアキさんも、我が子とのお別れに後悔があると言う。過去を変えることは誰にもできない。しかし、これからどのように生きるかはその人次第だ。同じように後悔があるママへこれからのヒントになることを願い、彼女が後悔を抱えながらも今どのように考えて過ごしているのかを記していきたい。

生後53日/左心低形成症候群による乳児死

名前:寺町アキさん(仮名)
地域:山形県
職業:公務員
家族構成:ママ(31歳)、パパ(32歳)、お子さんが地上に3人(6歳、5歳、1歳)、お空に1人
1人目は普通分娩で出産。2人目は子宮頸管無力症により帝王切開で早産。3人目、4人目は双子で36週に予定帝王切開で出産。4人目が心疾患により生後53日で乳児死となる。

幸せをありがとう

今回インタビューを受けてくれたアキさんは、2022年に3人目4人目となる双子の兄妹を出産し、妹の「えまちゃん」と生後53日でお別れを経験している。アキさんは、後悔ばかりの毎日を過ごしていたが、いつからかえまちゃんに対して大きな感謝の気持ちが生まれてきたそうだ。そのあふれる想いを、涙で声を詰まらせながら話してくれた。

元気な娘の姿

2人の子を育てていた私は、天啓のように「3人目が欲しい!」と思うようになった。そんな折、半年ほどして自然妊娠。2回目の診察で双子であることがわかり、驚きと喜びと、そしてほんの少しの不安に1人泣きそうだった。

2人目の子が早産だったため、頚管縫縮術*1(*1 子宮頸管無力症の早産予防のために行われる治療法)をして、32週から管理入院となった。しかし、妊娠中おなかの赤ちゃんたちはとても元気で異常を指摘されることもなかったため、心配事もなく「もうすぐ赤ちゃんたちに会えるんだ」と、とにかくワクワクした気持ちで過ごしていた。

予定していた日に帝王切開をして、2人とも元気な産声を聞かせてくれてホッとした。赤ちゃんにほんの少し触れさせてもらった後、すぐに自分の処置をしてもらい部屋へと戻った。無事に生まれて良かったね、と夫とともに一息ついた。

思えば、私が想像していた未来はここまでだった。ここから、誰も想像し得なかった日々が怒涛のように押し寄せてきたのだ——。

積み上がる病名

出産後、部屋で休んでいると小児科の医師がやってきて、娘の心臓に穴があいているので、県外の大きい病院に搬送すると告げた。あまりに突然のことで驚いたものの、医師に切羽詰まった様子はなかったので、きっと深刻なものではなく治療すれば治るものなのだろうと思い、「娘を宜しくお願いします」と伝えた。夫には娘の付き添いとして県外の病院まで一緒に行ってもらうことになった。

県外の病院でしっかり検査をしていくうちに、娘には次から次へと病名がついていき、最終的に難病を4つ含む計8つの診断名が宣告された。夫から、娘は心臓移植が必要なほど重篤な状態だと知らされたときは、ショックのあまり息が止まり目の前が真っ暗になった。どうしてこんなことになったのだろう……。

双子の誕生日となるおめでたいはずの日に、私は病室で1人、抱えきれない現実に押しつぶされそうだった。涙で前がよく見えないまま、娘の病気のことをひたすら調べることしかできず、不安な夜を過ごした。

生まれて5日目に最初の開胸手術をすることになった。応急処置的な手術で、これをしないと娘の身体は1週間持たないのだと言う。その頃の私はまだ入院中でそばにいることも叶わず、ただただ娘が無事であることを病室から祈ることしかできなかった。

手術を終えても、状態はあまり芳しくなかった。私は居てもたってもいられず、無理を言って娘の手術の翌日に退院し、数日ののちに娘の開いていた胸を閉じるための手術にあわせて初めて県外の病院へ娘の面会に向かった。

母としてのもどかしさ

当初「自立した生活ができることを目指しましょう」と医師から言われていたため、苦労しながらも大きく育っていくと思っていた。この先、長期の入院や治療が必要になることを考えると、上の子たちと一緒に過ごす時間がなくなってしまうかもしれないと不安になった。里帰り中の実家から娘の病院までは高速を使っても車で3時間以上かかるし、私自身も帝王切開後の体で万全な状態ではなかったため、なかなか面会へ行けなかった。

コロナ禍であることもあり、行けたとしても面会は1回15分程度。娘は全身に管やアラームが繋がっていてお世話ができるはずもなく、少しの母乳を口に含ませてあげることすらできない。母親なのに、何もしてあげられない自分にもどかしく悔しい思いだった。

4回目の面会あたりから、ようやく娘に対して、会いに行くのが楽しみだなとポジティブに思えるようになった。そのときの面会で、何かしてみたいことはあるかと聞かれ、「抱っこしてあげたいです」とお願いした。

スタッフが管だらけの娘を3人がかりで持ち上げてくれて、恐る恐る抱っこした。動くことがほぼない娘の体は赤ちゃん特有のふにゃふにゃ感がなくまっすぐで硬く、思ったように抱っこできなかった。ただ抱っこするだけなのにこんなにも大変だなんて……。それでも娘はしっかりと目を開け、こちらを見つめてくれた。

えまちゃん、あたたかくて、なんて可愛いんだろう。

不意に涙が頬をつたった。

後悔と罪悪感

5回目の面会の日。この日も抱っこをしたり、持参したセレモニードレスを娘の体にかけてあげて写真を撮ったりした。全体的に数値は悪化してきていると言われたが、この日はいつもよりも目がパッチリと開いていて、私には今までよりも元気そうに見えて少し安心していた。


面会はいつも日帰りだったが、この日、病院の近くにあるドナルド・マクドナルド・ハウス*2(*2 子どもの治療に付き添う家族のための滞在施設)に泊まることもできると教えてもらった。確かに、何度も往復するには長すぎる距離だから泊まるべきかもしれない。しかし、家には上の子や生まれたばかりの双子の兄も待っている。先ほど会った娘は元気そうに見えたので「大丈夫そうだ」と思い、この日は家に帰ることにしたのだった。

翌朝に病院から、娘の状態が良くないと連絡があり、慌てて車で病院へ向かった。県境を超えた山中で病院から「状態が危なくなってきました」と電話があり、ビデオ通話で繋いでもらった。運転を夫に代わってもらい、画面越しの娘に向かって「大丈夫だからの、今行ぐがらの」と泣きながら何度も声をかけた。

お願い、まだいかないで——。

しかし、看護師から「大変申し上げにくいですが……心拍が上がらなくなってきました」と言われた。そして「お母さんの声を聞いて安心したように旅立ちました」と告げられた。

……。

娘の最期、そばにいてあげられなかった。

1人きりで旅立たせてしまった。

昨日家に帰らずに泊まっていればよかったんじゃないか。

ショックと後悔で呆然とする私たちの声が聞こえていたのだろう。画面の向こうから看護師が声をかけてくれた。

「旅立つときも、私たちがえまちゃんとしっかり手を繋いでいましたから1人じゃなかったです。大丈夫ですよ」

娘が1人寂しくないようにずっと寄り添ってくれたスタッフの方々の心遣いは本当にありがたく、今でもあたたかく心に残っている。

それから約1時間、病院へ着いてすぐ娘と会った。管がたくさんつながれて手術もして辛かったよね、やっと病気から解放されたんだね。そんな思いもあったものの、何より最期に間に合わず1人にしてしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいになりボロボロと涙が止まらなかった。

初めてのお世話は亡くなった娘の沐浴だった。体が硬くて冷たくて、昨日抱っこしたときとの違いに、娘の死を突きつけられた気がして胸が苦しくなった。上の子たちが着たセレモニードレスを着させてあげて、そのままお世話になった先生方に挨拶をして、娘と一緒に車で実家へと帰った。途中海沿いを走るので海を見せてあげた。ずっと病院で過ごしていた娘に、この広い海や空を見せてあげたかった。

実家に戻り、娘を寝かせてあげた。娘を見て「可哀想に」と声をかける家族もいる中、祖母は、まるで生きている赤ちゃんに接するように娘の顔を撫でたりしてくれた。実は祖母も生後3ヶ月の娘を亡くした経験があるという。だからこそ、娘のことも1人の赤ちゃんとして受け入れてくれて、不用意な励ましや同情の言葉をかけてくるわけでもなく、私が1人にならないようにそっとそばにいてくれた。そんな祖母の存在が、私にはとても心強かった。

娘からのメッセージ

娘を失ってから失意の底にいた私は、娘が亡くなったことの意味を探すように、SNSで同じような経験をした人たちの投稿を眺めていた。その中でよく目にしたのが、「亡くなった赤ちゃんからメッセージを受け取った」という投稿だった。娘は生まれてきてからすぐ手術をして、きっと辛いことしかなかったのではないか。そんな中で娘が私たちに伝えたかったことってなんだろう。私には全然わからない。こんな母でごめんね、ごめんね……。

そうやってぐるぐると答えのない問いに苦しんでいた時、近所に住む親戚が訪ねてきた。その親戚は娘の遺影に向かって「そこまでして生まれてこねばねがったがや(そこまでして生まれてこなきゃならなかったのか)」とぼそっとつぶやいた。大きな病気を抱えて大変だっただろう、という意味でつぶやいた言葉だったが、それを聞いた私の頭の中に急にストンと答えが落ちてきた。

「そうか。そこまでしても、何を背負ってでも、来たかったから生まれてきたんだ」

きっと娘は病気があったとしても、生まれてきたかったから私たちのもとに来てくれたんだ。

最期のときに私から娘に「大丈夫」という言葉をかけたが、もしかしたらあれは「ママに会いたかったから生まれてきたんだよ。だから大丈夫だよ」という娘から私への「大丈夫」でもあったのかもしれない。そう思うと少し心が楽になった。


今を大事に

アキさんは当時を振り返って、先の生活のことを考えすぎて上の子たちとの時間を優先してしまい、今を生きようと頑張っているえまちゃんのそばにいてあげることができなかったと後悔の言葉を語る。先のことももちろん大事だが、どうか“今”にも目を向けてほしいと訴える。

「娘とお別れしてから、最初のうちは苦しみや悲しみだけでなく、どうして自分がこんなことになったのか、他の人が羨ましいという気持ちばかりでした。でも時間が経つにつれて、妊娠がわかった時、産声を聞いた時、可愛い顔を見せてくれた時……娘はたくさんの幸せをくれたんだと思えるようになりました。命の限り53日間、頑張って生き抜いてくれた娘の存在と出会えただけで何にも代え難い幸せなことだと感謝しています」

もちろん悲しみが支配して涙を流す日だってある。それでもきっとえまちゃんはママに「大丈夫」と言ってくれることだろう。

今、後悔に苦しむママがいたら「赤ちゃんはそれでもママのもとに来たかったんだよ、大丈夫だよ」と伝えたい、と話してくれた。

お別れした我が子のことで後悔に苛まれるのは、ママが赤ちゃんを大切に想っているからに他ならない。そんなママだからこそ、赤ちゃんは「どんな結果だとしても会いたかったから来てくれた」のだ。

アキさんとえまちゃんが交わした「大丈夫」というあたたかい言葉が、後悔に苦しんでいるママを優しく包み込んでくれることを願う。

著者(写真=アキさん提供/取材・文=SORATOMOライター 村木まゆ)

<参考文献>
産婦人科診療ガイドライン―産科編2020|公益社団法人 日本産科婦人科学会・公益社団法人 日本産婦人科医会|2020
公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン|2024.6.29取得


この記事は、2024年6月に取材した際の情報で、現在と異なる場合があります。
当事者の経験談を元に構成しており、同じお別れを経験した方に当てはまるものではありません。
不安な症状がある場合は、医療機関の受診をおすすめします。
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