安定期を過ぎれば、赤ちゃんは無事に生まれてくるものだと考えられることがほとんどだ。そんな中で、突然赤ちゃんとのお別れを突きつけられたらどうだろうか。周りは無事に産んでいるのに、私は元気な赤ちゃんを産んであげられなかったと自信を失うこともあるだろう。なぜ自分の身に降りかかったのかと疑問や怒りが湧くこともあるだろう。
赤ちゃんとのお別れは、喪失だけでは済まされない。ママ自身にもたくさんの変化が起きる。考え方や生き方の変化に戸惑い苦しんでいるママも、きっと多くいるだろう。
今回は、赤ちゃんとのお別れのあとに自身の変化に苦しみながら、時間をかけて向き合い懸命に生きているママへインタビューを行った。
妊娠40週/子宮内胎児死亡(IUFD)による死産
名前:佐野和佳子さん(仮名)
地域:関東地方
職業:会社員
家族構成:ママ(40歳)、パパ(40歳)、お子さんが地上に3人(9歳、6歳、0歳)、お空に1人
第一子、第二子を自然分娩、第三子を妊娠40週に原因不明の子宮内胎児死亡により死産、その後第四子を出産した。
予定日のあとの悲劇
6月22日、予定日を過ぎて40週3日になっていた。NST(胎児心拍数モニタリング)でもエコーでも第三子の娘はおなかの中でとても元気な様子だった。今までの健診も順調そのもの。すでに予定日は過ぎているので、そろそろ計画分娩を視野に入れて予定を組むことになった。
病院から提示されたのは、今日か4日後のどちらかで入院すること。
医師からはどちらでもよいと言われ、入院までに自然に陣痛が来るかもしれないという期待もしつつ4日後に入院することにした。
6月24日、朝からおしるしがあった。
やっときた!今日あたり陣痛が来るかな?昨夜も元気に動いていたよね。やっと会えるね。
前駆陣痛を感じながら、ようやく会えるという期待を胸に過ごしていた。
夕方になり本格的な陣痛になってきたので、病院へ連絡し、家族4人で病院へ向かった。病院に入る前に、入口のところで家族4人の写真を撮った。退院するときは娘が生まれて5人になるから、またその時に写真を撮ろうと思っていた。夜間は子どもの立ち会いができないため、夫と子どもたちはそのまま帰路へ就いた。
早速分娩台にあがり、助産師が分娩監視装置をつけようとする。
……あれ?どうしたの?なんでみんな慌てているの?
助産師が焦った様子で医師を呼びに走った。医師もエコーで赤ちゃんの心拍を探したが見つからなかった。医師の緊迫した声が耳に届く。
「……ご主人、戻ってこられますか?」
夫に連絡し戻ってきてもらって、陣痛のさなかに一緒に説明を聞いた。
「赤ちゃんの心拍がとれません。血流が映るはずの部分も全然映っていない。それでもこのままお産になります」
夫は「赤ちゃんはもうダメなんですか……?」と医師に聞いていたが、やけに冷静だった私は、「もう産むしかないですもんね。ほらあなたは子どもたちがいるんだから立ち会いできないし帰りなよ」と夫に言った。
心拍が確認できない、という事実は理解できていたのだが、それをうまく受け付けられず、感情が置き去りだった。
陣痛が強くなってくる。この先に誕生の喜びがないのに、この痛みに耐えられるはずもない。息も絶え絶えに、無痛分娩にできないかと聞いても、時間外で麻酔医がいないからできないと断られてしまった。
痛い、痛い!娘は生きていないのに、なんでこの痛みまで味わわないといけないの?なんでよ……!
そうしてたくさんの涙と叫びのなか、娘が生まれてきた。
本当に泣かないんだな……。
生まれてきた娘を見た私は、悲しさが込み上げてくるというよりも、「なんで?」という気持ちが強かった。娘を目の当たりにしてもなお、感情の処理がうまくできず、悲しみという感情がどこかに行ってしまったかのようだった。
娘との時間
その後、娘は検査のため連れて行かれ、1人で病室へ戻った。何もすることがなかったので、妊娠を知っている友人に死産を報告した。そのうちの1人から「娘さんとの時間を大切にね」とメッセージが返ってきてハッとした。
娘と少しでも一緒に過ごしたい。娘にできることをしてあげたい。
すぐさまナースコールをして、早く娘を部屋に連れて来てもらうようにお願いした。
娘の状態が悪くならないように、冷房を最大にして毛布をかぶって震えながら、動かない娘を部屋に迎えた。助産師には「寒すぎない?お母さん、無理しないでね」と言われたが、抱っこしたり、歌を歌ってあげたり、写真を撮ったり、添い寝をしたり、涙をこぼしながら思いつく限りできることをしてあげた。寒いとか関係ない。私たちには、今この時間しかないのだから——。
翌日、夫と子どもたちが面会にやってきた。娘との記憶を悲しいものにしたくなくて、明るい雰囲気になるようにと、できるだけ涙を見せないように心がけた。初めは緊張していたのか、固くなっていた上の子たちも、最終的には娘を抱っこしてくれた。
1ヶ月ほど前に、まるで私たち家族を表したかのような五つ葉のクローバーを見つけて、押し花にしていた。子どもたちがそれを持ってきてくれて、「この小さい葉っぱが◯◯ちゃんだよ」と娘に見せてあげていた。娘を家族として迎えてくれた子どもたちをみて、じんわりと心があたたかくなった。
飲み込まれていく自分
入院中に決めなければならないことの1つに、火葬の手配があった。自分たちで手配するか、病院側で全て手続きしてもらうかの選択肢が提示された。自分たちで手配するとなると、私の退院とともに娘も連れて帰らなければならない。6月という時期を考えると娘の体の状態が悪くなってしまうかもしれないし、その状態を上の子たちに見せるのは気が引けた。本当は家へ連れて帰ってあげたかったのだが、考えた末に病院にお願いすることにした。
退院のあと、火葬の当日は事前に病院から連絡があった。「◯時に◯◯の方角です」と教えてもらったので、その時間に合わせて夫と二人でそちらの方角を目指して少し歩いた。退院のときに着ていたワンピース。娘はママに気づいてくれるかな?
夕方に娘のお骨を受け取りに病院へ向かった。出産したはずなのに、家にはお世話をするはずだった娘がいない状況でとても寂しかった。お骨であっても娘が私の腕の中に帰って来てくれたのがたまらなく嬉しくて、娘を抱きしめて声を上げて泣いた。
それからの私は、なぜ?という気持ちと怒りの感情に苛まれていた。
なんで死産してしまったんだ。
神様は何もしてくれなかった。
私の体はどうして最後まで娘を守ってやれなかったんだ。
時間を巻き戻したい。
あのとき、すぐに入院していれば今でも娘は生きていたんじゃないのか。
そんなことばかりを考えて数ヶ月過ごした。
私はこの時、自分自身に「40週で死産した」というレッテルを自ら貼り付けて、それがまるで私の100%のアイデンティティであるかのように振る舞っていた。『もののけ姫(© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND)』に登場するタタリ神のように、ドロドロとしたものに自分自身が飲み込まれて押しつぶされそうになっていたのだ。
グリーフケア
産後1ヶ月ころから、娘のお世話の代わりに骨壷カバーを手作りしてゆっくり娘のことを想う時間を作った。また、とめどなく湧き出てくる自分のやり場のないさまざまな感情を、溜め込まないように日記にぶつけたりした。
産休を終えたあとは、職場に復帰した。
復帰早々、個人の業績目標設定をすることとなり、その中に資格取得の項目があった。資格取得のためには、プライベートのかなりの時間を勉強に充てる必要がある。
仕事は頑張りたいけれど、そこまでの気力があるだろうか……。それに、自分のグリーフと向き合う時間をきちんと確保したい。
上司に相談をしたところ、私の気持ちを汲んでもらい、資格取得の項目を免除してもらうことができた。
こうして私は、娘と、そして私自身のグリーフとゆっくり向き合う時間を設けることができた。
また産前休業中から見ていたドラマは死産直後は見る気になれなかったのだが、徐々に手持ち無沙汰となり、見るでもなくぼんやりとドラマを流すようになった。そのドラマの中で、我が子を亡くした主人公が、その先の人生の合間に時々我が子を想うような描写があった。そうか、この主人公と同じように、私の日常の中にも娘がいるんだ。自分に染み込んでいくように、こういう風に生きていきたいと思うようになった。
そこで初めて、タタリ神のように、自分で貼ったレッテルに押しつぶされて生きていくのは苦しいかもしれないな、ということに気づくことができた。
そうやって私はグリーフとじっくり向き合う中で、徐々にではあるが、怒りや悲しみ、贖罪など、溢れていたさまざまな感情の落としどころを見つけていき、以前ほど生きることに苦痛を感じにくくなった。
タタリ神のように膨らんでいた感情は薄くなっていき、『もののけ姫』のアシタカの腕に残るアザのように、一生消えることはないけれども、それが私の全てなのではなく、ともに生きていく一部なのだと感じるようになった。
もちろんこの経験で、物事の捉え方は変わったりした。しかし私の核は私。それは変わるものじゃないということに気づくことができた。
自分らしさを取り戻すために
和佳子さんは悩みながら、当事者に向けた気持ちをこう語ってくれた。
「その出来事に一度は押しつぶされてしまうとしても、いつかは、自分らしさみたいなものを取り戻してほしいと思います。そのために、自分やグリーフと向き合ったり、亡くした子のことを想ったりする時間を、少しずつでも、できれば継続的に、意識的に、持ってもらえたらと思います」
和佳子さんは、現在もお別れした娘さんのためにコツコツと手芸を続けたり、感情が揺れるときには日記を活用したりしている。自分が生きやすくいられるためには、続けることが大事だと実感しています、と話してくれた。
和佳子さんが現在も続けている日記帳
我が子とのお別れは、その人の考え方や生き方までをも大きく変えてしまうほどの出来事だ。それをきっかけに生きにくさを感じることもあるだろう。しかし、あなたがあなた自身であることには変わりないはずだ。
お別れした赤ちゃんとの向き合い方は、人によってさまざまで、うまく向き合えない時期もあるかもしれない。ゆっくりでいい。あなたがあなたらしさを取り戻せることを切に願っている。
著者(写真=和佳子さん提供/取材・文=SORATOMOライター 村木まゆ)
この記事は、2024年9月に取材した際の情報で、現在と異なる場合があります。
当事者の経験談を元に構成しており、同じお別れを経験した方に当てはまるものではありません。
不安な症状がある場合は、医療機関の受診をおすすめします。
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SORATOMO編集部
赤ちゃんとのお別れの「その時」から「これから、ずっと」共に生きるをテーマにしたWEBメディア「SORATOMO」を運営する編集部。流産・死産・新生児死・乳児死などで赤ちゃんとお別れをしたママと周囲の方へ向けた、生きていくヒントとなる情報をお届けします。